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最高裁判所第一小法廷 昭和42年(オ)980号 判決

上告人(原告)

大沢五夫

被上告人(被告)

曽我産業株式会社

ほか一名

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人岩田孝の上告理由第一、三点について。

原審の確定するところによれば、被上告人鹿野勝治は、昭和三九年一月一七日午後三時四〇分頃被上告人会社所有の自動車ダットサン愛四や六一五九号を運転して原判決添付図面表示の六郷小学校西門通を北進し、名古屋市北区平安通四丁目先の交差点にさしかかり、一旦停止して前面の信号が青信号に変つた後ほぼ北に向つて前進し、交差点の東側歩道の手前で右折し、時速五粁ないし一〇粁の速度で東進せんとした瞬間、同交差点を西方より時速数十粁の速力で東進してきた上告人運転の軽四輪車が被上告人鹿野の運転する車の左側前部に衝突し、そのバンバーをひつかけ、上告人の車はそのまま平衡を失つて平安通の東側停止線に信号待ちのため一時停止していた自動車群に突入し、その中の一台である訴外峰村信孝運転の車に衝突したものであり、一方、これに先だち上告人は交差点東側の信号が黄信号当時、同交差点西側の停止線を出発して交差点に入つたため、その出発直後前面の信号が赤に変つたので、急スピードで交差点を通り抜けようとして、すでに右交差点に入り東方に方向転換していた被上告人鹿野の車の背後から同車を追越そうとした瞬間、自車を右被上告人運転の車の左前部に衝突せしめたものであるというのであり、この認定は、その挙示する証拠関係に徴し、首肯しえないことはない。右の認定に反する甲六号証の記載および一審証人三宅健治の証言は信用し難いとした原審の判断も、その証拠内容および挙示する証拠関係に照らし肯認することができる。

そこで、案ずるに、本件交差点のように信号機の表示する信号により交通整理が行われている場合、同所を通過する者は、互にその信号に従わなければならないのであるから、交差点で右折する車両の運転者は、通常、他の車両の運転者も信号に従つて行動するであろうことを信頼し、それを前提として注意義務を尽せば足り、特別な事情のないかぎり、信号を無視して交差点に進入してくる車両のありうることまでも予想して左右後方の安全を確認すべき注意義務を負わないものと解するのが相当である(最高裁判所昭和四三年(あ)第四九〇号同四三年一二月二四日第三小法廷判決、刑事裁判集一六九号九〇五頁参照)。この見地に立つてみると、前記事実関係のもとにおいては、被上告人鹿野には本件事故につき過失はなく、かえつて、本件事故はもつぱら上告人の過失に基因するものであることが明らかである。したがつて、被上告人らに対する本訴請求を排斥した原判決の判断は正当として、是認することができ、原判決に所論の違法はない。したがつて、論旨は採用することができない。

同第二点一について。

自動車損害賠償保障法三条但書所定の免責要件事実のうちある要件事実の存否が、当該事故発生と関係のない場合においては、運行供用者は、右要件事実の存否が当該事故と関係がない旨を主張立証すれば免責されると解するのが当裁判所の判例である(最高裁判所昭和四三年(オ)第一〇五七号同四五年一月二二日第一小法廷判決民集二四巻一号四〇頁)。本件記録に徴すれば、被上告人会社において、自己が本件事故車の運行に関し注意を怠らなかつたかどうか、自動車に構造上の欠陥または機能の障害がなかつたかどうかは、本件事故と関係がない旨暗黙の主張をしているものと解せられ、原審も、その旨の認定判断をしているものと解せられないではないから(右認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし是認するに足りる。)、所論の点につき判断するまでもなく、上告人の請求は排斥を免れず、結局原判決に所論の違法はなく、論旨は採用することができない。

同第二点二について。

すでに第一、三点について説示したところに徴し、原判決に所論の違法がないことは明らかである。したがつて、論旨は採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。

(裁判官 長部謹吾 入江俊郎 岩田誠 大隅健一郎 藤森益三)

上告理由

上告代理人岩田孝の上告理由

第一点 原判決は、民法第七〇九条の不法行為における過失の解釈を誤り、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背がある。

(一) 原判決が、本件衝突事故発生の瞬間時点の直前における加害運転者たる被上告人鹿野勝治の行為として認定しているところのものは、「昭和三九年一月一七日午後三時四〇分頃、被上告人曽我産業株式会社所有のダットサン愛四や六一五九号を運転して原判決添付図面表示の六郷小学校西門通りを北進し、名古屋市北区平安通り四丁目先の交差点に差しかかり、一旦停車して前面の信号が青信号に変つた後、北に向つて前進し、交差点の東側歩道の手前で右折し、時速五粁ないし一〇粁の速度で東進せんとした」という事実に尽きる。

そして、その際における被上告人鹿野の自動車運転者としての注意義務の履行、すなわち過失の存否に関する解釈として原判決が示すところのものは、「信号を無視して背後から突進してくる被控訴人の車に気がつかず、これを避ける措置を講じなかつたとしても、少くとも上告人に対する関係においては過失がない」というのであり、その根拠として最高裁昭和四一年一二月二〇日判決、裁判所時報四六四号一四頁を挙げている。

(二) 自動車運転者が自動車の運行にあたり、交差点を通過する際に、尽すべき注意義務としては、先ず第一に、いついかなる事情の下においても注意をなすべき一般的な注意義務、例えば、道路交通法第三六条第二項、第三項の趣旨により、狭い道路の進行車は広い道路の進行車に注意すべきこと、同法第三七条第一項の趣旨により、右折車は直進車および左折車に対して注意すること、などが先ず遵守されなくてはならないが、つぎに第二に、四囲状況から、さらに具体的な危険が予想される場合にその危険に対処してこれを避ける具体的な措置をとる注意義務が考えられ、例えば、進路上にエンスト車両を発見した場合、幼児を発見した場合等の注意義務などがそれである。そして、前者は、いわば道路交通上の抽象的危険に対処するものであり、他方、後者は具体的な危険に対処するものであるが、この二種類の注意義務は、そのいずれの一つを欠いても、不法行為の成立要件たる過失を構成するものであることは勿論である。しかるに、原判決は、被上告人鹿野につき、右の第一の一般的注意義務の欠けることを認めながら(正確には、原判決の表現からいうとこの点判断の遺脱および審理不尽とも考えられる。すなわち、「被控訴人(上告人)の車に気がつかず、これを避ける措置を講じなかつたとしても」と表現しているし、また、「控訴人(被上告人)鹿野勝治において被控訴人の車が進行して来るのに注意を払わなかつたのは同控訴人の過失であると主張するが……場合においては……過失がないものというべきである」と表現しているからである。しかし、間接的には、広い道路の、かつ、左方の直進車に対し、被上告人が注意を払わなかつたことを認めていることは、右の判文を合理的にみて明らかである。)、依然、過失がない、としたのは、民法第七〇九条の過失の存否に関する解釈を誤り、結局、同条の解釈適用を誤つたものである。

(三) 原判決が指摘する前記最高裁昭和四一年一二月二〇日の判決は、刑事被告人のための判決であるうえ、その内容は、

(イ) 被告人は左側を注意している。すなわち、一般的注意義務にも欠けるところがないことを前提としている。

(ロ) 被害車は右側後方から突進してきたケースに関し、結局、この場合に具体的な注意義務を求めるとすると、右側を振り返えるようにしてまで注意せよ、ということになつて、不合理となるケースである。

(ハ) しかも、特別の事情があれば、依然、無謀かつ違法な運転者に対してもそのような注意義務も要求される。

これに反し、本件では

(イ) 被上告人鹿野は、自車の左側に対して注意を全く払つていない(第一審判決は判沢書九枚裏でこれを明示して過失を肯定しているけれども、原判決はこの点明示を欠くが判文上間接にこれを認めている)。

(ロ) 本件では、前方ないし、少なくとも左方に対する注意義務が問題なのである。原判決添付図面によつてみられるとおり、被上告人鹿野より上告人に対する注意義務を要求しても、それは、道路交通法の命ずる前方、左方注視義務そのものである。

(ハ) 本件では、被上告人鹿野に、すでに一般的注意義務の尽すべきものが尽されない点で特別事情も問題とならない。

それ故、本件は右の最高裁の判決と著しく事例を異にしているし、また、判旨も異るわけである。ひつきよう、右最高裁判決のばあいは、加害者たる被告人が尽すべき注意をすべて注意したにも拘らず、発生した事故であるのに反し、本件では、前述のとおり被上告人鹿野につき、尽すべき注意義務が尽されていない点で本質的に異る事例である。

第二点 原判決は、つぎのごとき判断の遺脱もしくは法令の不適用をなし、判決に影響を及ぼすこと明らかな法令の違背がある。

一、その一つは、自動車損害賠償保障法第三条の適用を全然考えていない点である。原判決の判示事実のみからすれば、同法の適用により被上告人会社の人身事故関係部分の損害賠償責任は免れないものである。

上告人が第一審(控訴審でも援用)および第二審で主張した事実の中で、右の点に関係する事実としては

(一) 加害自動車は被上告人会社の所有であること

(二) 運転者被上告人鹿野が被上告人会社の被用者であること

(三) 被上告人会社の業務に従事中に本件事故を惹起したこと

以上の各事実が含まれているが、原判決は右の(一)の事実を判断しただけで、(二)および(三)の事実を判断じていない。しかし、この点の判断次第によつては、被上告人鹿野の過失の有無に拘らず、被上告人会社は加害自動車の保有者として、人身事故部分の損害賠償責任を免れないものであるから、重大な判断遺脱である。

なお、この点につき、上告人は訴状において民法第七一五条を援用記載しているけれども、本件は物損と身体損の双方を含む損害賠償請求であるため、双方のための根拠法令が民法第七一五条であるにすぎず、身体損についてはさらに自動車損害賠償保障法も適用されることはいうまでもないところであるところ、適用法令の援用は、いささかも裁判所の判断を拘束するものではなく、法令は、その要件事実さえ主張されておれば、裁判所においてその適用を判断せざるべからざるものである。もしも、適用法令の主張がなければその要件事実の主張もないものと扱われたならば、右の訴訟法の理論を知る者が却つて不利益を蒙らせられるという不合理極りない結果となるであろう。

二、つぎに、原判決は、被上告人が左方の注意、広い道路の注意、直進車への注意等の義務を尽したか否かにつき、前述のとおり、判文の全体としては判断(否定的に)したものと解されないでもないけれども、しかし、依然、明白な判断としては全く示されていないので、念のため、その判断遺脱の違法もここに指摘したい。右の点についての上告人の主張は、訴状請求原因の第一項、および、控訴審における昭和四二年四月一一日付準備書面二枚目裏において、明白に現れていることである。

第三点 原判決は、本件事故の模様について、つぎの二つの点で甚だしく恣意的な認定ならびに推認をしているが、その不合理性はもはや、事実認定の領域を超えた民事訴訟法の法理における経験則違背である。

一、その一つは、上告人が信号を無視した旨の認定である。

(一) 信号の当の目撃者である上告人は、一貫して青信号のとき交差点に入つたと述べており(甲第九号証、第一、二審の上告人の供述)、その供述は極めて卒直、自然である。上告人は、かつて交通法規の違反歴もなく、また年令も四九才になる分別ある者である。これに反し、被上告人鹿野は、その反対の供述をしているが、違反二回、交通事故一回の前歴を有する者である(甲第一〇号証)。彼此相反する供述について、どうして、同被上告人の供述を採用し、他を排斥するのか、後記各事情と照し合わせても、甚だ不合理である。

(二) 第一審証人日比野章洋の証言が原審の認定の寄りどころとされていることは疑う余地がない。しかし、同証人としても、上告人が交差点に入る瞬間時点における原判決添付図面記載の甲信号機の如何については、直接の目撃者ではない。同証人は、自己が前方信号機の黄色を認めて反対方向で停車した、ということしか、正確な証言は期待できないのであつて、その余の証言部分は、この事実から間接的に推測した主観的な判断にすぎないのである。同証人は「信号が赤だつたので停車したのです」と述べているが、信号が黄で停車するのが本則であるし、現実の事例も八、九割までそうである。同証人は、上告人が信号を無視したかの如くに供述するが、右の事情からその信用度を欠くこと明らかであり、また、同証人は被上告人会社近辺に居住し(住所参照)、証言に関する通謀の疑いもなしとしないのであるから、かかる証人の証言が、どうして上告人側証人よりも信用できるのであろうか。

(三) もつとも重大なことは、原判決が客観的事実にもとずく実況見分調書(甲第六号証)や、公平である筈の警察官第一審証人三宅健治の証言を特別の事情もないのに排斥していることである。

いつたい、民事訴訟の対立当事者間では、互にその援用する証言や供述結果が食い違うのが極めて多く、そのいずれか一方を信用し、他を信用しない、と決めてしまうことも、それが自由心証主義の範囲内のこととして合理的に是認できる場合はともかく、誰がみても証拠の客観性等から、他の証拠と対比して、当然、信用すべきものとされるものもあるわけであるが、本件における前記証人三宅健治の証言や甲第六号証などは、まさにそれである。

しかして、右証人は、信号無視ということは断定できないし、その事情を極めて合理的に説明しているのであつて、信用できない証言では絶対にない。この種証人は、警察官として日常、生々しく交通事故を処理し、現場の客観的な観察に堪能であるのが一般であり、その証言の信ぴよう性に疑いを持つべき特段の事情もないのに、これを排斥するのは、条理に反する。

(四) なお、具体的な事実として、交差点内で、上告人の運転車両は、後方より来た他の車両たるタクシーに追抜かれている(上告人の第一、二審の供述)。これは、上告人の後続車両ですら走行できる状態、すなわち、その進路が青信号であつたことを物語る。

(五) その他、上告人が信号を無視して交差点を通過したか否かの点は、証拠上(事実に反する証拠か否かはともかくとして)、無視の疑いはあるにせよ、確かに無視であると断定するには、あまりにも合理的な反対証拠が多く、通常の判断をもつてしては、決して、原判決のごとき認定とならないのである。

二、その二は、上告人が「東方に方向転換していた」被上告人鹿野の車の「背後から」同車を「追越そうとした」旨の原判決の推認の甚だしい不合理性である。

(一) 衝突部位は、上告人の車の右側後部ないし中央部と被上告人鹿野の車の左前部である。この場合の両車の衝突の型態は左図(末尾添付図面(A))のとおりと見なければならない。

もし、原判決のとおり、被上告人鹿野の「背後から同車を追越そうとした」ものであるならば、左図(末尾添付図面(B))のとおりとなる筈である。

(二) いつたい、右の(B)図の場合に、甲点と乙点とが衝突すると考えられるであろうか。特別な知識経験を持つ物理学者等であれば、あるいはこれを想定し得るとしても、然し依然、(A)図よりは、はるかに想定できない極めて例外的現象である筈である。原判決は、(A)図でなく(B)図の状況を「推認」したものと言わざるを得ないが、ひとしく「推認」程度であるならば、(A)図こそ「推認」せられる状況である。

(三) なお、乙第一号証の写真のC点にみられる加害車のバンパー中央部の凹型損傷のごときが、仮りに万一、被上告人側で主張してきたように「バンパーの左端を自車に引つかけ」たとき生ずるものであるにせよ、それは問題でない。けだし、被上告人側から突込んで行つた場合でも、やはり直進車の速度が右折車より早ければ、バンバーを「引つ張る」状態となり、この場合の物理的作用は全く同じであるからである。したがつて、上告人が「バンバーを引つかけた」か、被上告人鹿野が突込んで「バンバーを引つ張られた」か、は右の凹状損傷をもつてしては判断できないからである。

三、その三は、上告人が被上告人の車の右に触れたところの、「バンバーを引つかけた」とする原判決の認定である。原審が採用している乙第一号証に明白なとおり、その写真のB点、A点が、へこんでいる事実と右認定とは全く矛盾する。バンバーを引つかけたのであるならば、(イ)右写真のB点は、外側に引き離された形状になる筈であるし、(ロ)だいいち、A点がへこむ筈がない。バンパーもバンパーであるが、A点も明らかに衝突している。すなわち、被上告人鹿野こそ右写真のA、B点を含む部分をもつて上告人に衝突して行つたのである。

四、何故に、原判決は、かくも上告人に不利に、恣意的な誤認を敢えてするのであろうか。思うに、その誤認の中心は、第一に上告人の信号無視の有無、第二に上告人の車が被上告人の左前方にあつたか後方にあつたか、の点にあり、そして、これをして原判決記載のごとき判示をさせたのは、原審裁判官が前掲最高裁の判決について、その事例の差異を見出すことに努力せず、逆に、その援用をのみ強く意識し、「信号無視」と「後方から」という類似点を作り上げようとしたことに根ざすものと思わざるを得ない。さすがに、第一審裁判官(交通事故専門部)は、右二、三、叙述のごとき誤りは、決してしなかつたのである。

以上、要するに、原判決は甚しく経験則に反する認定方法をとり、それが法令の違背になり、しからずとするも、理由の不備、くいちがいであることは言うまでもなく、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

以上

図面A

〈省略〉

図面B

〈省略〉

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